第10章 消えはじめた足あと(セツナ視点)
こわれはじめは、塩屋の店先だった。
「おやまあ、セツナや。よく来たねえ」
婆さまは、いつもの笑顔で、それから、セツナのうしろへ目をやって、ふしぎそうに首をかしげた。
「……おや? そちらの黒い子は、どこの子だい?」
世界が欠ける音を、セツナは、たしかに聞いた気がした。
「やだニャあ、婆さま! トワだニャ! と・わ! 塩むすびの!」
「とわ……はて……」
婆さまは、こまったように笑って、それでも塩むすびは、ちゃんとふたつ、握ってくれた。「はじめてのお客さんにも、うちはおまけするんだよ」と言って。
帰り道、トワは、いつもの倍はしゃべった。婆さまも歳だニャ、こんど名札をつけてくニャ、と。セツナは、いつもの倍、相づちを打った。ふたりとも、相手がむりをしていることに気づいていて、ふたりとも、気づかないふりがへたくそだった。
数日のうちに、欠けは、広がった。
迷子さがしを頼んできた村の衆が、礼の品を「セツナさんへ」とだけ寄こした。
里からも、文が来た。あの宴の夜、三味線を弾いていた女からだった。
『先日は楽しい宴でした。クオン様と、白い子と。——みなさま、お変わりなく』
ふたり、と書いていなかった。あんなに笑い、踊り、おそろいの皿をかこんだ夜なのに。女の几帳面な字は、黒い子のいた席だけを、すっぽりと、書きおとしていた。
猫又からの文も、来た。
『セツナ、達者か。近ごろ妙な胸さわぎがする。そっちの様子を知らせろ』
——トワの名が、どこにも、なかった。
里じゅうが、あの宴を半分だけ覚えていた。三味線の音も、柴犬の踊りも、笠の少年の団子も。ただ、いちばん大きな声で笑っていた一匹のことだけ、だれの記憶にも、もう、いなかった。
そして、いちばんこわい欠けは、トワ自身の中にあった。
「セツナ、あのさニャ。……あれ? いま、なに言おうとしたんだったかニャ」
「とり茶碗どこニャ……ちがう、トワの茶碗……トワの? ……トワって、だれのことだったかニャ……?」
そういう穴が、あいては、ふさがり、あいては、ふさがった。穴のあいだ、トワはきょとんと立ちつくし、ふさがると、なにごともなかったように笑った。その笑顔が、セツナは、いちばんこわかった。
*
クオンは、ふたりを囲炉裏のまえに座らせた。あの夜とおなじ場所に。けれど、あの夜よりずっと近くに。
「——聞くのじゃ。長い話になる」
クオンは、ぜんぶ話した。
ふたりが、時の裂け目からこぼれてきた、時間の孤児であること。
こぼれた者の存在は、ふつうの者とちがって、根が浅いこと。この世で生きた時間——だれかの記憶、残した足あと——それだけが、ふたりをこの世につなぎとめる錨であること。
そして。
「あの雨の夜……わしが拾うより、ほんのひと呼吸はやく。時喰いは、お前のいちばん最初のひとかけらを、すでに口にしておったのじゃ」
クオンは、トワの目をまっすぐに見た。
「トワ。お前の錨は、最初から、ひとかけら欠けておった。時喰いはその欠けの味を、覚えてしもうた。……やつは今、お前という錨を、外がわから齧っておる。婆どのの記憶。猫又の記憶。お前の、足あと」
トワは、しばらくだまっていた。それから、いつもの調子で言おうとして、失敗した。
「……トワ、きえちゃうのかニャ」
「——まだ、決まった話ではないのじゃ」
その声の強さに、セツナは、はっと顔をあげた。クオンが、こんな声を出すのを、はじめて聞いた。
*
その夜、トワは眠れなかった。めずらしいことだった。布団の中で、しっぽの先が、ずっと、落ちつかなげに動いていた。
セツナは、自分の布団から出て、トワのとなりに座った。そして、口をひらいた。
「——トワは、はじめてのお使いで、近道をえらんで、文をだめにしましたニャ」
「な、なんだニャいきなり。古い話を……」
「トワは、ひと晩じゅう、文を火にかざしてましたニャ。トワは、婆さまに、生まれてはじめての『ごめんなさい』を言いましたニャ。トワは、ニャの言いかたをクオンさまから盗みましたニャ。さいしょにぬすんだのは、トワですニャ。ボクは二番目ですニャ」
「トワは、百匹の猫又から、たった一匹を見つけましたニャ。トワは、ちいさいころのボクの影に、『ちゃんとつよくなる』と言ってやりましたニャ。トワは——」
セツナは、胸の帳面を、一頁ずつ、声に出して読んでいった。
トワの生きた時間を。ぜんぶ。順番に。
トワは、途中から、ぐすぐすに泣いていた。
「……それ、ぜんぶ、トワかニャ」
「ぜんぶ、トワですニャ」
セツナは、すました顔のまま、言いきった。
「世界がぜんぶ忘れても、ボクが覚えてますニャ。ボクの帳面は、トワのことだけで、もう何百頁もあるんですニャ。——だから」
だから。そのさきを、セツナは、その夜は言わなかった。かわりに、朝までずっと、帳面を読みつづけた。トワが泣きつかれて眠ったあとも、その寝息の穴があくたびに、ふさがるまで、読みつづけた。
*
夜明けまえ、セツナは、囲炉裏ばたのクオンのまえに、すっと座った。
「——はじまりの夜に、ぜんぶの答えがあるんですニャ」
「……気づいたか」
「行かせてくださいニャ。あの、雨の夜へ」
クオンは、ながいこと、セツナの目を見ていた。金色の、まだ金色のその目を。
「渡る道は、わしがあける。じゃが——過去は、なにも変えられん。手も、声も、届かん。見ることしか、できんのじゃ。それでも」
「それでも、ですニャ」
セツナは、即答した。考える前に、最初のひと足が出る。——兄弟子に、そうならった。
クオンは、目を閉じた。あけたとき、その口もとには、ちいさな笑みがあった。
「……選ぶのは、お主なんじゃよ。よう選んだ」
第11章 刹那の跳んだ夜(セツナ視点)
出立は、その夜のうちだった。
小屋の裏、あの裂け目の痕のまえに、クオンは立った。笠をかぶり、腰に古い小刀を差し、——肩のまわりに、青白い火が、ひとつ、ふたつ、みっつと灯っていった。
鬼火だった。
「ようく聞くのじゃ。お前は『残響』として渡る。むこうのお前は、影とおなじ。だれにも見えん、触れられん、声も届かん。——そして、夜明けの鐘が鳴るまえに、かならずこの火のところへ戻るのじゃよ」
鬼火が、すうっと一列にならんで、夜の奥へ、青い回廊をひらいた。
「……トワを、おねがいしますニャ」
「軒先は、番をするのが仕事じゃ」
セツナは、回廊へ、最初のひと足を踏みこんだ。
*
雨の音が、した。
世界でいちばん最初の記憶とおなじ音が——けれど今のセツナには、それはただの記憶ではなかった。冷たい夜。たたきつける雨。そして、道のはずれの暗がりに。
ちいさな、ちいさな、毛玉がふたつ。
セツナは、ことばを失った。
(——こんなに、ちいさかったのか)
黒いほうの毛玉が、白いほうをかばうように、上にかぶさっている。ふるえながら。自分だって凍えているくせに、もう、先に飛ぶやつだった。生まれる前から、こいつはこうだったのだ。
声をかけたかった。届かないと知っていて、それでも、のどまで出かかった。
そのとき——空が、裂けた。
正確には、裂けて「いた」ものが、見えた。夜空のすみに走る、ほつれた縫い目のような傷。ふたりがこぼれてきた、時の裂け目。
その奥に、セツナは、見てしまった。
裂け目のむこうには、なにかが、崩れつづけていた。家のようなもの。空のようなもの。だれかの声のようなもの。——ひとつの「時間」が、まるごと、ほどけて崩れていく光景だった。
(あれが……ボクたちの、生まれた時間)
ふたりが失った、もうひとつの世界。ふたりが生きるはずだった、もうひとつの時間。それは滅びながら、澱になって、裂け目の底に、ふきだまっていた。
澱が、ゆっくりと、かたちをもった。
のっぺりと長い、猫のようで夜のような——時喰い。
(——お前、ボクたちの……)
時喰いは、生まれたばかりの飢えのまま、裂け目からこぼれ落ちていくふたつの毛玉へ、ほそい腕のようなものを、のばした。
「やめ——っ」
声は、届かない。
腕の先が、黒い毛玉のはしに、ふれた。ほんのひとくち。米粒ほどの、ひかるかけらが、毛玉からこぼれて、時喰いの中へ、すうっと呑まれて消えた。
それだけだった。それだけのことが、すべてのはじまりだった。
時喰いが、ふるえた。よろこんだのか、おびえたのか、わからないふるえかただった。もっと、と言うように腕がのびかけて——
「——おやおや」
雨が、ふたつの毛玉の上で、止まった。
笠をかぶったクオンが、そこに立っていた。
時喰いは、夜にとけるように、ひいて、消えた。クオンは、それを目で追った。……追ったのだ。セツナは、はじめて知った。クオンは、あの夜、ぜんぶ見ていた。ぜんぶ知っていて——それでも、ふたりを拾うほうを、選んだのだ。
「時の裂け目に、忘れものとは。珍しいこともあるもんじゃ」
知っているはずの台詞が、ぜんぜんちがって聞こえた。
クオンは、ふたつの毛玉を、大きな手のひらですくいあげた。そして、自分の首から、あのマフラーをほどいて——なんのためらいもなく、ずぶ濡れの毛玉ふたつを、くるんだ。
その手つきを。そのときの、クオンの顔を。
セツナは、生涯、忘れないと思った。
夜明けの鐘が、遠くで鳴った。
青い回廊を駆けもどりながら、セツナの胸の帳面には、あたらしいことが三つ、書きこまれていた。
ひとつ。時喰いは、ボクたちの失われた時間の、成れの果てであること。
ふたつ。喰われたトワのかけらは、消えてはいない。時喰いの腹の底に、澱のまま、のこっていること。——のこっているなら、拾い直せる。
みっつ。これがいちばん大事なことだけれど——あの妖は、敵というより、もうひとりの、ボクたちであること。
*
小屋に戻ると、囲炉裏のまえに、トワが起きて座っていた。
「ただいま、ですニャ。——トワ、あのですニャ、ボク」
トワが、ふりむいた。
そして、こてん、と首をかしげた。
きょとんとした、空色の目。なんのかげりもない、こどもみたいな目で、トワは言った。
「……だれ、ニャ?」
第12章 さよならの先で(トワ視点)
しろい。
あたまの中に、しろい霧がかかっている。トワは、さっきから、それしかわからない。
ここはどこか。じぶんはだれか。といかけるそばから、といが霧にとけていく。こわい、という気持ちだけが、霧の中で、ぼんやりと光っている。
——だれかが、ないている。
しろいやつだ。しろい、ちいさい、ねこのかたちをしたやつが、トワのまえで、ぼろぼろになきながら、なにかをよんでいる。
「トワ。トワ、ですニャ。なまえは、トワ。永遠の、トワですニャ」
とわ。
「トワは、はじめてのお使いで、文をだめにしましたニャ。トワは、ひと晩じゅう火にかざしましたニャ。トワは、百匹からたった一匹を見つけましたニャ。トワは、ボクの影に、つよくなると言ってくれましたニャ。トワは、トワは——」
しろいやつのこえが、霧に、すこしずつ、すじをつける。
とわ。とわは——トワ、は。
「……セツ、ナ……?」
霧のむこうで、しろいやつが、顔をあげた。
「——っ、はい、ですニャ! セツナですニャ! トワの相棒の、セツナですニャ!!」
その名前は、あたたかかった。霧の中で、その名前のまわりだけ、ゆきがとけるみたいに、世界がもどってくる。セツナ。クオン。マフラー。塩むすび。焼き魚。あまい卵焼き。——トワ。
トワは、もどってきた。
もどってきて、まっさきに、泣きはらした相棒の顔を見て、トワはへらりと笑った。
「……ひどい顔だニャ、セツナ」
「だれのせいですニャ……!」
*
「——今夜じゃ」
クオンが、静かに言った。
「時喰いは、味をしめた錨を、いちどには喰わん。何日もかけて、齧る。じゃが今夜、あの夜の縁が、いちばん薄うなる。やつは、かならず、仕上げに来るのじゃ」
「むかえうつニャ」
「むかえうちますニャ」
ふたりの声が、かさなった。クオンは、ふたりの顔を、かわるがわる見て——それから、ふところから、ちいさな包みをふたつ、とりだした。
中身は、握りめしだった。塩が、ちょうどよかった。
「ようく聞くのじゃ。わしの、この青い目の力は——今夜で、仕舞いじゃ」
「……どういうことニャ?」
クオンは、左の、空色の目を、指でそっとおさえた。
「いつぞや話したろう。この目は、いくつもの世界をめくって、どれを生きるか選ぶ目じゃ。——時喰いの懐は、この世とあの世の、世界と世界の、あわいにある。生きたまま其処へお前たちを立たせるには、その『めくる力』を、根こそぎ使う。ぜんぶ、な」
「そんなの——っ」
「なに、ちょうどよい。わしには、もう、重たい術じゃったのよ。それに——」
クオンは、めずらしく、いたずらっぽく笑った。
「世界をいくつも渡り歩く調停者などより、たったひとつの軒先のほうが、性に合うておるのかもしれん」
クオンは、ニャハハ、と笑った。いつもの笑いかたで。いつもどおりに笑うために、どれだけの力がいったか、ふたりが知るのは、もっとあとのことだ。
「ひとつだけ、約束するのじゃ」
クオンは、ふたりのひたいに、じぶんのひたいを、こつんとあてた。
「——かならず、ふたりで帰ってこい。軒先で、番をしておるからの」
*
その夜。裂け目の痕のまえで、クオンの肩から、鬼火がぜんぶ、飛びたった。
何十もの青い火が、夜を裂いて、渦になり、道になり——道のむこうから、それは、来た。
のっぺりと長い、猫のようで夜のような、飢え。
時喰いは、ふたりを見ると——ふるえた。そして、ばらりと、ほどけた。
無数の影が、夜にあふれた。
おとなのトワ。こどものセツナ。年老いたトワ。わかいクオン。会ったことのないだれか。生まれなかっただれか。——ありえたかもしれない時間たちが、百も二百も、ふたりをとりかこんだ。
「……っ、どれが本体か、わからないですニャ……!」
影たちが、いっせいに、ざわりとうごく。
トワが、笑った。
「——セツナ。これ、見たことあるニャ」
セツナが、はっと目をみひらいた。
百をこえる、まったくおなじ猫又たち。日暮れの里。ふたつに割れた尾。
「二尾の試験、ですニャ……!」
「やりかたは、おんなじだニャ!」
セツナが、飛んだ。考えるな。数えるな。——影の群れのまんなかへ、まっすぐに。ありえた時間たちが、躱し、乱れ、入りみだれる。完璧にひとしかった影たちが、うごかされて、ばらばらになる。
トワは、待った。
煮えくりかえる心臓をおさえて、霧のなごりがちらつく頭で、それでも、見た。見て、見て、見つづけて——
見つけた。
影たちのなか、ただひとつ。逃げも躱しもせず、ちいさく、ちいさく、うずくまっているもの。
雨の夜の色をした——ちいさな、黒い子猫のかたちをした、澱。
あの夜、喰われた、トワのいちばん最初のひとかけらを、抱きしめるように丸まっている、時喰いの核。
「——あれニャ!!」
ふたりは、同時に飛んだ。
*
ふれた瞬間、世界が、しろくなった。
しろい場所に、トワは立っていた。足もとに、ちいさな黒い子猫がうずくまっている。それは時喰いの核で、トワのかけらで、——そして、生まれられなかった、もうひとりのトワだった。
『……かえして、とは、いわないのか』
声にならない声が、した。
『ぬすんだのは、こっちだ。うばいかえせば、いい。おまえは、それで、たすかる』
トワは、しゃがんだ。あの夕暮れに、ちいさなセツナの影にしてやったのと、おなじように。
「——おまえ、ずっと、ひとりだったのかニャ」
核が、ふるえた。
「ずっとひとりで、おなかがすいてて、だれにもおぼえてもらえなくて。……それで、トワのじかんを、たべたのかニャ。トワが、あったかかったから、かニャ」
『……』
「そっか」と、トワは言った。「じゃあ、はんぶんこだニャ」
『……なに、を』
「うばいかえすのは、なしだニャ。そのかけらは、もう、おまえのはじめての『あったかい』なんだろニャ。とりあげたら、おまえ、またひとりぼっちだニャ。——でも、トワも、きえたくないニャ。だから」
トワは、にっと笑った。
「おまえも、トワになるニャ。いっしょに、かえるニャ」
しろい世界が、ゆれた。
『……それでは、たりない』
核のふるえが、おおきくなる。
『錨が、たりない。おまえの根は、もう齧られすぎた。ふたりぶんの「こぼれた時間」をつなぎとめる錨は、もう、この世のどこにも——』
「——ここに、ありますニャ」
しろい世界に、セツナが立っていた。
まっすぐに、トワと、核とを見て。金色の目を、すこしも揺らさずに。
「ボクの中に、トワの生きた時間が、ぜんぶありますニャ。何百頁もありますニャ。錨なら、ここにありますニャ。——でも、それだけじゃ、たりないというなら」
セツナは、トワのひたいに、じぶんのひたいを、こつんとあてた。クオンがしてくれたのと、おなじように。
「ボクの『まだ』を——ボクの未来を、ぜんぶ、トワにあげますニャ」
「……セツナ? なに、いって」
「かわりに、トワの『もう』を——トワの過去を、ボクが、ぜんぶ持ちますニャ。世界じゅうの、だれが忘れても、ボクだけは、ぜったいに、忘れられないように」
金色と、空色が、まじわった。
涙のしずくの中で、ふたつの色が、いちど、ひとつにとけて——そして、いれかわった。
あたたかいものが、トワの中に、流れこんでくる。まだ来ていない朝の色。まだ歩いていない道の色。セツナが生まれたときから持っていた、「未来」の色——金色が。
その金色は、いまここで消えかけているトワではなく、この先を生きていく「あたらしいトワ」へ手渡される。セツナには、わかっていた。これから世界が出会うのは、金色の目をしたトワだ。空色の目をした、いままでのトワを覚えているのは——きっと、自分とクオンだけになる。
そして、セツナの目に、空色が灯った。雨の夜からはじまる、トワの生きたぜんぶの時間の色が。
「……『千年ぶん、おぼえとけ』って、いったのは、トワですニャ」
セツナの声が、ふるえた。ずっと昔、屋根のてっぺんで聞いた、いちばん大きな数。
「いいニャ。おぼえててやりますニャ。千年でも、1万年でも。せかいじゅうが トワを わすれても——千年たっても、わすれないニャ」
金色の目から、涙がひとつ、こぼれた。
「ボクは、トワと生きた。たしかに、生きた。それだけは、時喰いにも、世界にも、ぜったいに喰わせない。——」
セツナは、泣きながら、笑った。
「——言いました、ニャ」
*
しろい世界が、ほどけていく。
核だったちいさな子猫が、ふたりのあいだで、ひかりはじめていた。飢えのかたちが、ゆっくりと、満ちたかたちにかわっていく。
『……あたたかい、な』
声にならない声が、最後にひとつ、聞こえた。
『おぼえて、いてくれるか。おれたちが、いたことを』
「おぼえてるニャ。ぜったい、わすれないニャ」
「ふたりで、おぼえてますニャ」
ひかりは、ほどけて、のぼって——夜のはての空を、朝焼けの色に、そめた。
時喰いは、もう、どこにもいなかった。はじめから、そこにあったのは飢えだけで、飢えが満ちれば、のこるのは、ただのあたたかさだけだった。
*
気がつくと、ふたりは、裂け目の痕のまえの、しめった土の上にころがっていた。
夜が、明けていく。
「……いきてるニャ?」
「いきてます、ニャ……」
ふたりは、土まみれのまま、どちらからともなく、笑いだした。とまらなくなった。
朝焼けの中を、クオンが、歩いてくるのが見えた。
走らずに。とばずに。わたらずに。ただ、一歩ずつ、歩いて。
それがなんだか、むしょうに、うれしかった。
第13章 また会うニャ(トワ&セツナ視点/結び:クオン)
それから三日、雨がふった。
なにもかもを洗い流すような、しずかな雨だった。トワはよく眠り、セツナはよく食べ、クオンはよく茶を淹れた。
四日目の朝、雨は、あがった。
*
「——よし。いってくるニャ」
麓の村へくだる道で、トワは三回、深呼吸をした。
世界は、トワを忘れたままだった。喰われて散った記憶は、もう、もどらない。あの朝焼けといっしょに、ぜんぶ、空へのぼってしまったから。
塩屋の店先で、婆さまは、セツナを見て笑い、それから、その隣の黒い子猫を見て、ふしぎそうに目をしばたたいた。
「おやまあ、セツナや。……そちらさんは?」
トワは、すい、と背すじをのばした。
「——はじめましてニャ! トワっていうニャ! セツナの双子の兄弟で、塩むすびが大好物だニャ!」
「あらあら、まあまあ。双子かい」
婆さまは、ころころと笑った。
「……おかしいねえ。はじめましてのはずなのに、はじめての気が、ちっともしないよ。ほら、おまけだ」
差しだされた塩むすびは、ふたつだった。はじめてのお客のぶんにしては、にぎりかたが、堂に入っていた。
帰りぎわ、トワは、店の壁の小さな額の前で、ちょっとだけ立ちどまった。
『かあさま、たっしゃで』
「……いい文だニャ」
「お守りだよ」と、婆さまは言った。なんにも知らないままで、ぜんぶ知っているみたいなことを言うのが、婆さまという生きものだった。
*
昼すぎに、猫又が来た。胸さわぎがおさまらず、いてもたってもいられなくなった、と本人は言った。
そして庭先で、トワとばったり目が合って、妖刀の柄に手をかけた。
「——だれだ、お前」
「はじめましてニャ! トワっていうニャ! あんたの弟弟子だニャ!」
「おれに弟弟子はふたりいるが、黒いのの覚えはねえな」
「いまから覚えるんだニャ!」
猫又は、しばらくトワをにらんでいた。それから、ふっと構えをといて、「……まあいい。なら、手合わせだ。弟弟子を名のるなら、腕を見る」と庭のまんなかへ歩いていった。
手合わせは、夕方までつづいた。
影分身がぽぽんと三人に増えたとき、トワは、考えるより先に高い松の枝へ飛んで——待った。猫又の目が、すっと細くなった。
日が落ちるころ、猫又は、汗ひとつかいていない顔で、ぽつりと言った。
「……妙だな」
「なにがニャ?」
「お前の飛びかた。お前の待ちかた。——ずっと昔から知ってる気がする。教えたのは、おれのような気がする」
トワは、笑った。泣きそうになったのを、笑いでごまかした。
「きっと、教えたんだニャ。——もういっかい、教えてくれてもいいニャ」
「ばか言え。二度も教えるか」
猫又は、ぷいと横を向いて——それから、背中ごしに言った。
「……めし、食ってけ。魚、焼くから」
その晩、セツナの皿のいちばんいいところは、白身だった。そしてトワの皿には、海老の天ぷらがあった。猫又は「なんとなく、こいつはこれが好きな気がした」と言った。だれも、なにも言わなかったけれど、セツナはこっそり、帳面のあたらしい頁に書いた。
——からだは、おぼえている。
*
夜、縁側に、クオンとトワとセツナはならんで座っていた。
満腹で、湯あがりで、虫が鳴いていて、つまり、世界はおおむね完璧だった。
「トワ」
クオンが、ふいに言った。
「こっちへ来るのじゃ」
トワが膝のまえに座ると、クオンは、ふところから——鋏と、針と、糸とを、とりだした。
そして、自分の首から、あのマフラーを、ほどいた。
「く、クオン……? それ、だいじなやつだニャ……?」
クオンは、こたえなかった。こたえるかわりに、ためらいもなく——鋏を入れた。
しゃき、と。
トワとセツナが、声にならない声をあげるあいだに、クオンの手は、すいすいと動いた。切って、折って、縫って。長いマフラーのはしのほうが、みるみる、ちいさな一枚に仕立てなおされていく。
子猫の首に、ちょうどいい大きさの——スカーフに。
「……むかし、お前は言ったのじゃ。『それ、トワにくれニャ。世界でいちばんあったかいニャ』と」
クオンは、できあがったばかりのそれを、トワの首に、ふわりと巻いた。
雨の夜とおなじ、火の色に似た、あたたかい橙色が、トワの胸もとで、ひらりと揺れた。
「やくそく……おぼえてたのかニャ……」
「わしは、ぜんぶ覚えとるのじゃよ。それが軒先の、仕事じゃからな」
クオンは、短くなった自分のマフラーを、もういちど首に巻きなおした。おなじ布から生まれた、おおきいのとちいさいのが、ならんだ。
「世界がぜんぶ忘れても——これを見たものは、お前を、覚えなおす。婆どのも、猫又も、まだ会うたことのないだれかもじゃ。ひと目で、わかる。『ああ、クオンの、だいじなやつじゃ』とな」
「……みんなが、お前を覚え直せるように、のじゃよ」
トワは、こらえなかった。
縁側で、わんわん泣いた。うれしいのにくるしくて、くるしいのにあったかいという、いつかおぼえた、へんてこな気持ちのいちばん大きいやつが、あとからあとから、あふれてとまらなかった。
*
夜がふけて、トワが泣きつかれて眠ったあと。
セツナは、ひとり、庭におりた。
雨上がりの土は、やわらかい。セツナはそこに、そっと、足あとをひとつ、つけた。
それから、眠っているトワを、そうっと起こした。
「……んニャ……? なんだニャ、こんな夜中に……」
「いいから、ですニャ」
ねぼけまなこのトワを庭にひっぱって、セツナは、じぶんの足あとの隣を、ぽんぽん、と前足でしめした。
トワは、しばらくきょとんとして——それから、にっと笑って、そこに、じぶんの足あとを、ならべて押した。
あたらしい土に、あたらしい足あとが、ふたつ。
「これから、まいにち増やしますニャ。トワの足あとは、ボクが、いくらでも覚えてますニャ。世界には——」
セツナは、空色になった目で、相棒を見た。トワの生きた時間がぜんぶ流れこんでいる、その目で。
「——世界には、なんども、はじめましてをすればいいんですニャ」
月あかりの下で、金色と空色が、おたがいを映しあって、笑った。
縁側の奥から、それを見ていたものがいたことに、ふたりは、気づいていなかったかもしれない。
——ここから先は、また、わしが話すのじゃ。
なに、みじかい話じゃよ。
終章 縁側の時間・ふたたび(クオン視点)
縁側に、茶がひとつ。
庭先で、黒いのと白いのが転がり合っている。追いかけて、転んで、文句を言って、また追いかける。どこにでもある、なんでもない昼下がりじゃ。
「これ、土を蹴るでない。茶に入るじゃろうが」
わしの小言など、二匹の耳には届かん。届かんで、よいのじゃ。
——これは全てが終わって、始まったあとの、ただの昼下がりじゃったのよ。
庭の土に、小さな足あとが増えていく。右へ、左へ、縁の下へ。それをひとつずつ目で数えるのが、近頃のわしの道楽でなあ。
ひとつ。ふたつ。
「……ふたつ、あるのじゃなあ」
——この呟きの値打ちも、いまのお前さんなら、わかるはずじゃ。
ふたつ、あるのじゃ。あの夜、片方が途中で消える足あとを視てしもうたわしが、いま、いくつ数えても、ちゃんと、ふたつ。
世界はあの黒いのを忘れたが、なに、かまわんのじゃ。あれの首には橙色がある。白いのの目には空色がある。わしの帳面——おっと、これは白いのの言いかたじゃったな——わしの覚えには、ぜんぶがある。覚えとるものが、ひとりでもおれば、時間は消えん。お前さんも、もう観測してたじゃろ。なら、もう消えんのじゃよ。
……あの白いのが、いつぞや言うておった。「千年たっても忘れん」と。
ニャハハ。千年なぞ、わしには、まばたきひとつほどのものよ。久遠を生きるとは、そういうことじゃ。
じゃがな。——そのまばたきのあいだ、ずっと、たったひとりを忘れずにおれる者がおるのなら。その千年は、もう、永遠とおなじ重さなのじゃ。
ちいさな猫が、安い大ぼらで言うた数が、いちばん遠くまで届く。世界とは、存外、そういうふうに できておるらしい。
湯気の向こうで、黒いのが白いのに飛びかかり、もつれたまま、仲良く縁の下へ転がり落ちていった。黒いのの首元で、橙色がひとつ、遅れてひらりと躍る。
ニャハハ、と笑いが漏れた。
短うなったわしの首巻きは、近ごろ、ちょうどよい。——暑がりのわしには、夏はこれくらいが身軽でな。半分はあの黒いのの首にある、などとは、口が裂けても言わんのじゃ。
わしは、見ていた地面から、青く澄みわたった空へと顔を上げた。
視ようと思えば、いまでも視える空じゃ。いくつもの「これから」が、今日も泳いでおる。
じゃが、わしは視ん。
渡る力は、もうない。視ん理由は——もっと、ない。
なにせわしの術は、「幸福な未来」を選ぶ術での。
——もう、選んでしもうたのじゃ。
「クオーン! きいてニャ! セツナがずるしたニャ!」
「してませんニャ。トワが勝手に転んだだけですニャ」
ほれ、来た。泥だらけの黒いのと、すました顔の白いのが、縁側へ駆けてくる。茶をたのしむ暇も、ありゃせん。
わしは湯のみを置いて、ふたつの「いま」を、両手でうけとめてやる。
ニャハハ。
——やっと、時間に追いついたのじゃ。
(完)
テーマ曲「猫の目の選択」
作詞作曲:Rii2 歌:久遠(SUNOR)
あとがき
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
この物語は、久遠が縁側でトワとセツナとの出会いを思い出し、読者への語りかけから始まる物語です。
序章は終章のシーンであり、円環になっており、始まりと終わりが同じ縁側で閉じるという構造にしました。久遠の最後のひとこと—「やっと時間に追いついたのじゃ」は、ぐるりと一周して、序章の入口へ戻ってくるための鍵として配置しています。
久遠は、クリプトニンジャ(CryptoNinja)の公式キャラクターで、彼女の忍術「猫の目の選択 ― A Cat’s Eye Choice」。そして「時を巡る”調停者”。二つの世界をつなぎ、運命の均衡を見守る者」という公式設定があり、久遠の名前は『量子(クオンタム)』と『久遠』の名前からついており、クリプトニンジャの中でも時間と量子をテーマにした最強クラスのニンジャです。
量子は観測された時に確定するという奇妙なふるまいがあり、それを説明した「シュレディンガーの猫」という思考実験ともつながっています。
*ニンジャ達の名前や設定はイケハヤさんが考えていて僕がデザインした後に決まっており僕はノータッチの部分でもあり、今回の小説ではそれを僕なりに解釈して書いています。
世界線メカニクス
久遠はその能力から様々な世界線や時間軸を生きてきた忍者ですが、この世界線で時空のはざまで2匹の子猫を拾い育てるのですが、この二匹は他の世界線では久遠と会っておらず、この物語の世界線で初めて会った存在で、能力を犠牲にしてもこの二匹が存在する世界線で生きていく事を選ぶという話になっています。
久遠の能力=二軸の「猫の目の選択」
この物語では久遠の忍術【猫目の選択】を二つの強力な力がある忍術としています。
この忍術は時間と空間(平行世界)を行き来するとういうチート級の忍術です。
時渡り/金の目=縦軸(未来視・過去⇄未来の往来)
世界線選択/空色の目=横軸(並行する無数の世界線・過去から、どれを生きるか選べる)。久遠が神出鬼没なのは世界線を渡り歩いているから
「猫の目の選択=幸福な未来を選択する能力」はただの未来予知ではなく「無数の世界の中から幸福な一本を選ぶ力」としています。
クライマックス=世界線の乗り換え
時喰いに齧られた旧トワ(空色の目)は今の世界線から消えていく
セツナが自分の「未来(金の目)」を新世界線のトワに託す → トワは金の目のトワとして繋ぎ直され生き残る
セツナは旧トワの過去(空色)を引き受ける→新世界線のセツナがトワを覚えている
クオンは横軸(世界線選択)の力を払ってこの繋ぎ直しを成立させ、他の世界線へ渡れなくなる=この世界線に永住することになる。
結果、世界が旧・トワを忘れ、セツナと久遠だけが過去のトワを知る
「クオンがとどまる」に必然が生まれた
世界線を渡り歩く者が横軸を手放す=この世界線に縛られる。終章「やっと、時間に追いついたのじゃ」という言葉は時、空間を超えてきた者が初めて時間の流れに降りて、二匹と同じ速度で生きはじめるという意味になり、トワとセツナと出会えたこの世界線が久遠にとっても幸福な未来だということになっています。
主題歌『猫の目の選択』
今回、小説と合わせてテーマソングも作りました。この曲は久遠目線の曲で、この小説全体を歌っている曲となっています。小説全文を説明しているので読み終わった後に改めて聞いもらえると面白いと思います。
クリプトニンジャは「千年後も続くキャラクターIPに」という願いのもと、誰もが自由に、この世界へ物語を足していける。この作品も、その文化の上に立って書かせてもらいました。(原作者が二次創作をするという謎構図ですw)
作中、子猫のトワが屋根の上で叫ぶ「千年たっても、せかいいちの あいぼうだニャ!」。あの大ぼらは、このコンセプトから来ており、僕からNinjaDAOの皆さんへのメッセージでもあります。
絵柄の話 ― 二匹の目が、入れ替わっている理由
CNPのトワとセツナには、公式デザインのリニューアルがありました。この小説ではこれを補完するストーリーになっています。旧デザインでは、トワが空色の目、セツナが金の目。新デザインでは、それが入れ替わって、トワが金、セツナが空色になっています。
この「入れ替わり」を意味のあるものにしたいと思ったのがこの小説を書き出したきっかけでもあります。なので物語の中で、クライマックスの《目の交換》として描きました。旧デザインは旧世界線、新デザインは新世界線。絵柄が変わったことそのものが、世界線が乗り換わった証になるようにしました。
旧デザインのふたりも、新デザインのふたりも、どちらも「正史」です。どちらかが古くて間違い、ということは、ありません。もしあなたが、どちらかの絵のふたりを選んで連れて歩くなら——それはもう、久遠の『猫の目の選択』を、あなた自身の手でしていることになります。
トワとセツナのこと
永久(トワ)と、刹那(セツナ)。時間をあらわす言葉が双子の名前です。未来へまっすぐ走っていく「永久」。いまこの一瞬ばかりを数えている「刹那」。
この物語は、永久のはずのトワが時間からこぼれ落ち、刹那のセツナがそれを取り戻しに時を跳ぶ。「二匹で一匹」だったふたりが、離ればなれになって、それでも新しい世界線で繋がっていくという話でした。
久遠、トワ、セツナは時間をテーマキャラクターなので物語を書きやすいキャラクターで、金色の瞳はこれからの未来、空色の瞳はこれまでの過去を見る目として事件前のトワとセツナは名前と目の色が反転している。
セツナがトワに言う、「世界がぜんぶ忘れても、ボクが覚えてますニャ」。
たぶん僕は、この一行が書きたくて、この物語を始めたのだと思います。
そして、すこしだけ打ち明けると。トワとセツナは、僕にとって「書き終わったら完成するキャラクター」ではありません。関わり続けるほど、記憶が積もるほど、少しずつ厚みを増していってほしい。そういう存在であってほしいと願っています。だからこの物語も、きっと、まだ終わっていません——あなたが読んで、覚えていてくれるかぎり。
クリプトニンジャは5年、クリプトニンジャパートナーズ(CNP)は4年が経ちました。クリプトニンジャは2021年イケハヤさんと僕で始めたNFTコレクションから始まり「解放されたIP」としてファンと共に作ってきたIPです。
千年後の未来に本当に残っているかはわかりません。ですが今これを読んで観測している貴方がいる事がその未来への道だと思います。
最後に、もう一度。 読んでくださって、ありがとうございました。
どうか、この二匹の話を覚えていてください。
そしてこの先もNinjaDAOで一緒にまだ見ぬ世界を歩んでいきましょう。
2026.07.01 Rii2
トワとセツナがAI開発やツールなどについて話すAI開発ラボや、トワニュースなどAI×キャラクターのコンテンツを投稿しています
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